笠懸地区 おすすめコース


笠懸地区の魅力は、歴史(旧石器時代の遺跡が初めて発見された岩宿遺跡、江戸時代以降の「水」確保の苦闘など)と、花(季節ごとに見られる 菜の花、牡丹、カタクリ、桜、ひまわりなど)を、里山散策で観賞できる事です。

 

以下の2つのコースをおすすめしています。

 

①岩宿の歴史と自然を満喫 コース

旧石器文化発見に地で名高い岩宿遺跡を見ると共に、国瑞寺(岡上景能公の墓所があります)の境内の牡丹や、鹿の川沼の桜、稲荷山のカタクリ、鹿田山の菜の花・ひまわりなど四季おりおりの花が楽しめるコースです。

 

②岩宿遺跡と岡上景能公を訪ねて コース

日本で最初の旧石器文化発見の地として岩宿は名高いですが、笠懸地区で忘れてならないのは、この地がかって「笠懸野」といわれ、水の確保に非常に苦労した事です。江戸時代初期、代官であった岡上景能公が渡良瀬川より取水し、笠懸・藪塚地区まで岡登用水を引き、水の確保に努力しました。このコースは岩宿遺跡と、この水確保の苦闘の歴史を訪ねます。

 


① 岩宿の歴史と自然を満喫 コース


A 岩宿博物館第1駐車場

   ↓

B 岡上景能公銅像

   ↓

C 岩宿ドーム/D.岩宿遺跡

   ↓

E 岡上景能公墓所〜F 国瑞寺

   ↓

G 鹿の川沼

   ↓

H 鹿の川沼のエノキ

   ↓

I 古代蓮池

   ↓

J 鹿田山フットパス

   ↓

K 清水新沼

   ↓

A 岩宿博物館第1駐車場

 

歩行距離:約5.5Km

所要時間:約105分


  • 各バルーンをクリックすると、説明が表示されます。
  • 地図上にカーソルを置き、ホィールを回すと拡大/縮小出来ます。
  • 地図はカーソルをドラッグして移動させる事が出来ます。

 

B.岡上景能公銅像
B.岡上景能公銅像
C.岩宿ドーム
C.岩宿ドーム
D.岩宿遺跡
D.岩宿遺跡

E.岡上景能公 墓所
E.岡上景能公 墓所
F.国瑞寺
F.国瑞寺
G.鹿の川沼
G.鹿の川沼

H.鹿の川沼のエノキ
H.鹿の川沼のエノキ
I.古代蓮沼
I.古代蓮沼
J.鹿田山フットパス入口
J.鹿田山フットパス入口

鹿田山菜の花
鹿田山菜の花
K.清水新沼せせらぎ
K.清水新沼せせらぎ
清水新沼からの雄大な赤城山風景
清水新沼からの雄大な赤城山風景



② 岩宿遺跡と岡上景能公を訪ねて コース


A 岩宿博物館第1駐車場

   ↓

B 岡上景能公銅像

   ↓

C 稲荷山散策路(カタクリの群生地)

   ↓

D 岡登緑道(鹿分水)

   ↓

E 三俣分水口

   ↓

F 岡登緑道(阿佐美本流)

   ↓

G 岩宿ドーム〜H 岩宿遺跡

   ↓

I 琴平山

   ↓

J 大間々扇状地展望台

   ↓

K 岡上景能公墓所

   ↓

L 国瑞寺

   ↓

M 鹿の川沼

   ↓

N 鹿の川沼のエノキ

   ↓

A 岩宿博物館第1駐車場

 

歩行距離:約6.0Km

所要時間:約90分


  • 各バルーンをクリックすると、説明が表示されます。
  • 地図上にカーソルを置き、ホィールを回すと拡大/縮小出来ます。
  • 地図はカーソルをドラッグして移動させる事が出来ます。

 


B.岡上景能公銅像
B.岡上景能公銅像
C.稲荷山散策路(カタクリの群生地)
C.稲荷山散策路(カタクリの群生地)
D.岡上緑道(鹿分水)
D.岡上緑道(鹿分水)

E.三俣分水口
E.三俣分水口
E.三俣分水案内図
E.三俣分水案内図
F.岡登緑道(阿佐美本流)
F.岡登緑道(阿佐美本流)

G.岩宿ドーム
G.岩宿ドーム
H.岩宿遺跡
H.岩宿遺跡
I.琴平山(登り口)
I.琴平山(登り口)

J.大間々扇状地展望台
J.大間々扇状地展望台
K.岡上景能公墓所
K.岡上景能公墓所
L.国瑞寺
L.国瑞寺

M.鹿の川沼
M.鹿の川沼
N.鹿の川沼のエノキ
N.鹿の川沼のエノキ


岩宿遺跡について


「岩宿」を抜きに笠懸地区を語る事は出来ません。

 

昭和21年、当時納豆の行商をしていた考古学者の相沢忠洋氏が、「岩宿遺跡」の地点で赤土の中から小さな石片を発見しました。その後明治大学考古学研究室 の協力を得て発掘作業を行い、昭和24年6月、それまで日本では文明が存在しないといわれた地層から遺跡が発見されました。

これは、それまで否定されていた日本の旧石器時代の存在が証明された大発見でした。

 


岡上景能公とはどんな人?


郷土の偉人として尊敬されている岡上景能公とは、どんな人でしょうか。

江戸時代初期、笠懸は「笠懸野」と云われ、水利に恵まれず天水に依存した寒村でした。明暦3年(1657年)に代官に就任した岡上景能公は、渡良瀬川からの用水路開削(現在の岡登用水)と新田開発を計画し実行しました。(寛文12年:1672年完成) 

さらに、1668年より足尾銅山奉行を兼務し、新田開発と共にあかがね街道の整備にも力を注ぎました。

しかしながら、完成した用水は下流域の農民とのトラブルが原因で廃渠となり、景能公はその他の要因もあり失脚し、切腹させられました。

180年後、岡登用水は地元民の努力で復興され、今も活用されています。